清々しさの正体
『日曜日島のパパ』(1999年)ベッテル・リードベック作
菱木晃子訳 杉田比呂美絵 岩波書店
昨日ご紹介した『長くつ下のピッピ』のオマージュがところどころに散りばめられているのが、今日ご紹介する『日曜日島のパパ』、全4巻からなるヴィンニのシリーズ。
文字大きめ、頁数も150頁と短く読みやすくて、ユーモアたっぷりの楽しいお話。
小学校3,4年からとあるけれど、主人公ヴィンニ(8歳)の心情が分かるのは5,6年かなという気も。離婚したママにオープンな恋人がいるということや、そのことに特に複雑な感情を抱いていそうもないヴィンニは、無理してそうなわけでもなく、とっても自然体。
《『日曜日島のパパ』あらすじ》
8歳の女の子ヴィンニは、普段はママと一緒にストックホルムに暮らしている。夏の間だけ、は日曜日島という小さな島に暮らす偏屈な書評家のパパのところへ。日曜日島には仲良しの遊び友だちオッレがいて、島の暮らしはとっても楽しい。パパはママと再会したがっているけれど、うまく行かず、嫌っていたはずのミス・カンペキ(完璧)といい感じに・・・。
■ 愛されて育った子はやっぱり強い!
両親が離婚しているヴィンニ。日本人から見たら、複雑な家庭にカテゴライズされちゃうのかな?そんなこと微塵も感じさせないくらい、明るくて楽しいお話。
ボーイッシュで、冷静に大人を見つめつつも、ひねくれてるわけではない。ヴィンニが、素直にすくすく育っているのは母親からも父親からもたっぷり愛されてるからなんだな。自己肯定感の高いヴィンニは清々しい!
現代スウェーデン児童文学で驚くのは、その離婚率の高さ。その中で、母という立場よりも女としての立場を優先させる物語の中の子どもは、ひねくれてしまっているんですよね。高校生になっても、アダルトチルドレンみたいになっている(『冬の入り江』とか。そのときの記事はコチラをクリック)
そんな中で、両親から愛情いっぱい受けて育ったヴィンには最強だな、って感じます。
■ ヴィンニから学ぶニュートラルさ
ヴィンニはとっても、子どもらしい子ども。けれど、先に述べたように大人を見る目は冷静です。世間から怒りっぽくて変人と思われてるパパのことも、恥ずかしがり屋なだけなんだ、とちゃんと分かってる。そのほかにも、おかしいものはおかしいと見抜いてるのですが、この清々しはどこから来るのでしょう?
はっ!気づきました!
ヴィンニは、裁かないんですよね。そこで変に相手を批判しようと思ったり、憤ったりしない。つまり怒りにつながらない。実にニュートラルなんですよね。すごい!清々しさの正体はこれだったのね。
例えばね、ヴィンニが嫌いな讃美歌に『子どもを愛するイエスさま』というのがあるのですが、その歌詞の赤に『赤、白、黒、みなひとしく……』というのが出てくるんですね。ヴィンニはこんな風にパパに語ります↓
「すべての子どもを愛しているなら、あたしたちがどんなふうでも、愛してるということでしょ?」
「だったら、赤とか白とか黒とか、いう必要ないじゃない?そういうと、なにかちがいがあるって感じちゃうもの。あたしのクラスのアレックスという男の子はね、はだが黒いの。あの歌をうたうたびに、先生はアレックスを見て、ほほえむのよ。アレックスは、きずついてるの。だけど、先生は気がついてない。先生は、にこにこするばかりで。それって『とってもいい、だが……』っていってるのと、ちょっと似てない?」(P.42)
おかしいことはおかしい。でも、変な正義感もない。ああああ、8歳の子から学ばされます!
■ 欠点があるって人間らしいってこと
世間の目から見ると変人のヴィンニのパパも、ヴィンニの目を通して見ると、実に魅力的です。完璧を嫌うパパは言います。
カンペキはつまらない。完璧な人間には、その人らしい色がない。
ほっとする子も多いんじゃないかな?
ついつい、欠点は直すべきもの、そうすることが成長だと勘違いしてしまう私たち。欠点こそが個性だし、他の人がその人のために役立てるところ。そんなことも思い出させてもらいました。
最後に、訳者の菱木さんが、一番好きだという俳優アラン・エドヴァル(映画ではヴィンニのパパ役だったそう)の詩が面白いのでご紹介↓
ぼくらには なんにもできなかった
小鳥は とっくに死んでしまった
小鳥とは そういうものなのだ
みんなで耐えよう アレルギー反応
みんなでつくろう エネルギー産業
(P.32)
な、何これ(笑)