心理療法としてのファンタジー
『闇の闘い』(1980年)ウィリアム・メイン作 神宮輝夫訳
岩波書店
今日の一冊はコチラ。
まーた、マイナーな本持ってきて~、って感じでしょうか(笑)。
岩波書店、神宮輝夫さんの訳ときたら、私的にはハズレはないのです。
日本ではもちろん(←これね)絶版、図書館でも動くことがほとんどないと思われるこちらの物語、内容はこんな感じ↓
ドナルドは十五歳。重病の父といっしょの重苦しい毎日に少年の心は安まらない。そんな彼が突然足をふみいれたのは、竜の荒れくるう異世界だった…。交錯する二つの世界を同時に生きる少年は、闇の中に何を見たか。中学以上。(BOOKデータベースより転載)
■ダークでも共感できるのは、深層心理の世界だから?
とっても暗いダークファンタジー。家族の問題、宗教問題(メソジストVS英国国教会)も絡んできて、暗いし重い。ところが、グイグイと引き込まれて、まるで自分がドナルドになったかのような錯覚にすら陥るのですよ。現実と妄想の世界の境界線があいまいになってゆき、どちらも自分にとっては現実なんです。で、最終的にどちらの世界を選択するか。
『怪物はささやく』(レビューはコチラをクリック)を彷彿とさせたのですが、年代的に逆ですね。『怪物はささやく』のほうが、もしかしたら、この物語にインスピレーションを得たのかもしれません。抑圧された気持ち、受け入れがたい自分の感情にフタをしたままにするとどうなるのか。自分自身が何者なのかが分からないことから来る不安は、何をもたらすのか。
個人的に、ダークな物語は苦手です。でも、こちらの『闇の戦い』は引き込まれたなあ。竜にやられる場面は、とても生々しく、目を覆いたくなるし、悪臭に至っては、こちらにまで本当に匂ってくるかのような筆力。それでも、どこかでそういう世界を否定していない自分がいるんですよね。主人公のドナルドが、過酷なはずの竜の荒れくる異世界から、逃げようとしないのと同じで。不思議です。
例えば、数々の賞を取り、話題となったディストピア小説『マザーランドの月』なんかは、読んでいて吐き気をもよおしたんですよね。発想としては面白いのかもしれないけれど、なぜあんなに評価されるのか分からなかったし、別に出会わなくてもよかったとすら思った。でも、『闇の戦い』は読めてよかったなあ、と思いました。
■ 心理療法としてのファンタジー
日本では、それほど(全然?)注目されない『闇の闘い』ですが、『物語る力 英語圏のファンタジー文学:中世から現代まで』(シーラ・イーゴフ著、偕成社)の中では時代を代表する物語の一つとして、紹介されています。
シーラ・イーゴフによると、1960年代のリアリズム文学に押され、いったんかげりを見せたファンタジーでしたが、1970年代にめざましい勢いで盛り返したそう。この物語もそのうちの一つなんですね。(原書は1971年初版)そして、ファンタジーに「外向的」と「内向的」の2つの型がある中、こちらは後者。
ただ、シーラ・イーゴフは、「ファンタジーとしては、この物語は失敗」と言い切ってます。夫人公のドナルドは、精神の均衡を保つために、竜を殺した中世の世界を拒絶しなければならないし、未解決の問題が多すぎる、と。確かに、気になる箇所はところどころありました。
しかし、この物語は、心理療法としてのファンタジーとして、いままでのファンタジーの枠を超えようとする試みだったのでしょう。
ちなみに、神宮輝夫さんがあとがきで、原作では竜のことをworm(長虫)と書かれていたけれど、翼があるから、おそらく竜だろう、としていました。
長虫とはヘビと竜表す古代の呼び名で、民話ではしばしば「おぞましい長虫」とよばれている。(P.468)
と、シーラ・イーゴフも書いているので、竜で間違いないでしょう。多少、消化不良気味のところはあるものの、個人的には、面白かったです。