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後味悪い……それでも!


『さよならわたしの本屋さん』(1996年) ペーター・ヘルトリング作   若松宣子訳 岩波書店

先日、映画『マイブックショップ』の感想を書いたときに、児童文学体質(=幸福体質、希望体質)に慣れてしまったので、後味スッキリとはいかなかった、と書いたのですが……。

児童文学でも、そりゃ後味悪い物語はありますワ。それでも、読めてよかった!と思える物語を、今日はご紹介(残念ながら絶版ですので、ぜひ図書館で)。

《『さよならわたしの本屋さん』あらすじ》

イェッテはベルリンに住む空想好きな十二歳の女の子。ママの用事で知り合った近所の本屋さんは、お話大好きなちょっと変わったおじいさんの二人組。二人をとおしてイェッテの前に新しい世界のとびらが開かれる。すてきなお話の世界と暗いナチス時代の記憶のとびらが。クリスマス前の土躍の午後、二人の本屋さんが演じてくれた童話の影絵芝居にイェッテは大感激。でも、おじいさんと女の子の組み合わせに、心ない疑いの目がむけられて…。(BOOKデータベースより転載)

偏屈(と周りから思われている)成人男性二人しかいない本屋さん。そこへ女の子が一人で、しかも暗い部屋へと入っていくのです。たまたま見かけた近所の人が心配するのも無理ありません。本当は影絵芝居を見ていただけだったのに……。

せっかくイェッテの前に開いた新しい扉は、大人の勘違いによって、閉ざされてしまうのです。正直、後味の悪い終わり方なんですよね(涙)。もうちょっと希望のある終わり方はできないものかと、つい思ってしまいます。

でもね、作者のヘルトリングは、ドイツ児童図書賞を受賞した際に語った「子どもの本を書くときに心すること」5点の中でこんなことを語っているのです。(1,2,5は省略)

3 人間は社会全体を営むものだということを、子どもに語って聞かせること。作者自身の批判、怒り、願いを作品の中にはっきりと描き出して、読者を揺り動かし、考えさせること。ただし、教育的な指図をするのではなしに。

4 普通は誰でもハッピーエンドを期待するものであるが、未解決の疑問を残したままの終わりは、読者を積極的な参加へと導く。息を詰め、心を奪われて読み、最後に疑問符にぶつかって、読者は真剣に自分のこととして考える。そういう具合に書くこと。

確かに、この物語を読んだ後、「私ならどうしていただろう?」と考え続けました。自分の中に、あの大人と同じ要素がないとは言い切れなかったから。子どもを心配しているようで(いいことをしているつもりでいて)、実はちゃんと対峙しようとしていないのではないか、そんなことを考えさせられます。ちゃんと向き合っていれば、見極められるはずなんですよね。

ただ、この物語、ラストこそ後味悪いものの、中盤で感じたワクワク感に希望を感じます。

よく、本好きな人が「本くらい好きに選ばせてほしい、お節介やかないで」と言っているのを耳にすることがあります。確かにそれも一理あると思うのですが、でも、本に苦手意識のある人は何選んでいいかすら分からないこともあるんですよね。そんなとき、差し出してくれる人がいる大切さを、この物語は教えてくれるんです。

導いてくれる仲間、共有できる仲間がいるのは素敵なこと、そして、それは世代をも超えること。子どもと本の架橋になりたい人は励まされる。とても、ワクワクします。

ところで、今回のようにネガティブな要素があるものって、映画を始めとする映像は、どうしても絵的に強烈な場面が印象に残ってしまうんですよね。でも、本は違うな、って感じます。作者が一番伝えたかった思い、その時の自分が一番必要としてたメッセージが不思議と残るんです。

映像と本の基本的な違い。それは、印象に残る場面が(制作者側から)与えられるのか、(本の中から)自分でつかみ取るのか。そこに、映像ではない文章による物語の大切さを感じるんだなあ。映像は映像で好きですけどね!

臨床心理学者の故河合隼雄さんも、著書の中で取り上げていたヘルトリング。

心することの中で、「単純な文章を書くことを努力すること」と述べているだけあって、文章は平易ですが、内容は骨太です。

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