現代に足りない世界観?
『ほこれまみれの兄弟』(2010年)ローズマリー・サトクリフ著
乾侑美子訳 評論社
日本では2010年出版ですが、原書は、1952年初版です。
重厚感ある歴史ものを書くことの多いサトクリフですが、こちらは初期の作品のためか、ちょっとイメージが違うかも。
内容に合わせてか、「です、ます」調の文章で、流れている雰囲気がとても優しく、柔らかいのです。
【『ほこれまみれの兄弟』あらすじ】
孤児の少年ヒューは、意地悪なおばさんの家を逃げ出した。お供は、愛犬のアルゴスと、ツルニチニチソウの鉢植え。めざすは、学問の都オクスフォード。ところが、とちゅうで旅芸人の一座に出会い、すっかり魅せられたヒューは、彼らとともに旅することに。やがて―ヒューに、つらい決断をせまる時がやってくる…。自由で楽しい旅暮らしの物語の奥に、生きることの意味を考える、深い主題がかくされた秀作。
(BOOKデータベースよりそのまま転載)
THE★児童文学!といった感じで、安心して読めます。
確かに意地悪なおばさんも出てくるし、旅先で理不尽な目にあったりもするのですが、そこはさらっと描かれている。それより重きを置かれているのは、ヒューが出会った素晴らしい仲間。人は信頼するに足る、生きるとはいいもんだ、道は切り開けるよ!ということを教えてくれる物語なんだな。愛犬アルゴスとの絆もいい。
■ すぐに響くとは限らない
しかーし。果たして、この物語を今の子たちが読めるのか。物足りなく思わないのかな?
そんな思いもあるし、実際物足りないと思う子も多いような気がします(どなたか、学校司書さん教えてくださーい)
感情にぐわんぐわんと揺さぶりかけたり、サクサク読めて、展開の早いストーリーに慣れている今の子たち。それも、もちろんアリだし、実際面白い。感情揺さぶられて号泣したりするのは、カタルシス効果(心の浄化作用)もありますしね。
けれど、私の中ではそれらは“エンターテイメント”の部類かなあ、と思うのです。
淡々としているストーリーはすぐに響くとは限らないんですよね。絵本しかり。
だからね、私たち大人手渡す側も「これは子どもにはウケないな~。読書好きの子限定だな」とか、即効性で判断したり、決めつけたくないな、って思うのです。価値観を押し付けたいわけじゃなくてね、それとは別で、でもウケないから手渡すのを諦めるというのも、ちょっと違うのかな、って。
■ 人間だけが世界じゃない!
最近のYA(ヤングアダルト)と呼ばれる中高生向きの分野を読んでいると、面白くて一気読みのものが多いのですが、人間関係だけがフォーカスされてるのが気になるんです。大人の小説と同じ。
「ああ、こういう気持ちになるのは私だけじゃないんだ!」
と一時的なスッキリ感、納得感はあるのですが、やっぱりちょっと世界が狭い気がしてしまう。そこだけが世界だから、息苦しくなるんじゃないかな、って。
この『ほこりまみれの兄弟』では、美しい風景の描写も詩情豊かに描かれていて、なんていうのか、心に潤いが与えられるんですよね。
例えば霧に囲まれて、景色が一変してしまう場面。特に書いてはいないけれど、人間なんて自然の中のちっぽけな存在なんだ、ってことが体感として迫ってきます。
また、旅の途中で出会った人物として、巡礼中の不思議な笛吹が出てくるのですが、その人は笛の魔法を使って、ヒューに森の生き物たちと一体化する素晴らしい景色を見せてくれるのです。忘れられない美しい場面。一体あの人何者?本当に人だったの?妖精だったの?
でもね、それすらも、サトクリフはさらっと流します。物語は流れていくのです。大きな大きな流れの中にいるんだな。
今の子(&大人も)には、こういう物語、世界観が足りないんじゃないかな?上橋菜穂子さんとかもちろん例外はいるけれど。そんなことを思うとき、いつも思い出すのは、、宮崎駿監督と養老孟司さんの対談『虫眼とアニ眼』の中で、養老さんがおっしゃってたこと。(そのときの記事はコチラをクリック)
サトクリフの物語にも、もちろん人間関係も出てきます。でも、それを包み込んでいるのは人間よりも大きな存在である自然。
足に障害があり、生涯車椅子で過ごしたサトクリフ。想像の翼を使って、このようなロードムービー的な物語を書き上げていることに、改めて驚きです。