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萌え絵論争を考える


『子どもに本を買ってあげる前に読む本 現代子どもの本事情』(2008年)赤木かん子著 ポプラ社

今日の一冊は、自分の中では色々考えさせられた、こちら。

というのも、とても、興味深い記事発見したからなのです。その記事とは、コチラ↓

絵本・児童書の“萌え絵”論争――「子どもに悪影響」の声に、児童文学評論家が反論

サイゾーウマンより

興味深い記事なので、ぜひご一読ください。

児童文学における萌え絵(アニメ画)表紙に関しては、前々から感心があったんです。というのも、私自身は「ないわー」と思っていても、実際自分の子どもは大好きだから。どこまでが、大人の価値観の押しつけなのか、いつも考えているからです。

この記事読む前から、ここに登場する児童文学評論家って赤木かん子さんのことだろうなー、と予想。ピンポン!ま、サイゾーウーマンだからね・・・。

■ ゲドVSハリポタ

色々つっこみどころはありましたが、ただ、もちろん共感するところもあって。

上記の本で述べられていた、学校図書館での本の分類の仕方、作り方には関心するし、活字の変化についても考えさせられます。彼女のハリーポッター論も面白い!ハリーポッターを攻撃する人は必ず『ゲド戦記』ファンとか(笑)。

かん子さんによると、問題は、ハリーのファンはゲドのファンを攻撃しないのに(というか存在自体気にもしていない)ゲドのファンはハリーのファンを攻撃する、と。

SFファンもミステリーファンも時代小説ファンも、イヤだ、という人に自分の好きな本をムリにススめたりしません。自分の好きな本を好んでいる人を探そうとはしますが……。

児童文学の一部のファンだけなのです。そういうことをするのは。そうしてそれはなぜかというと、相手が子どもだからです。なにをいっても、自分は攻撃し返されない相手、だからなのです。(P.88)

最後の一文には納得いきませんが、そういう人もいるのかもしれませんね(私の周りにはいないけど)。ただ正統派(というと語弊があるかもだけど)好きも、気を付けなくてはなあ、とは思わされます。正しさを押し付けないように。

かん子さんのいう、「子どもたちは、新しい世界を生きるのだ」にも共感するし、大人の古い価値観押し付けることへの疑問にも、一理あるな、とは思います。

■ 人はお菓子だけで生きられるのか

確かに、子どもたちは新しい時代に生きているし、子どもが面白いと思うことが重要。

でもね、手渡されなければ、それに気づくこともできないこともあるんです。

例えば、子どもたちにとって、スナック菓子(萌え画、軽い内容や文章)はお手軽、楽しい、美味しい。でも、それだけ食べ続けていたら・・・?その美味しいって、おなかがすいたときに山の頂上で食べる、シンプルで地味なおにぎり(正統派児童文学)の美味しさとは違うよね、って思うんです。魂の飢えは満たしてくれないよね、って。

スナック菓子を否定してるんじゃない。それだけが蔓延することがどうなのかな、って思ってるんです。バランス。

■ 子どもたちが新しい時代を作る

サイゾ―ウーマンの中で、ビートルズを例えにしてましたが、確かに『長くつしたのピッピ』だって、出た当初は世間からすごく批判された。でも、子どもたちが支持して、スタンダードになっていったんですよね。

子どもたちが選ぶ、確かに重要。子どもたちが、新しい時代を作る、賛成です。でも、いま

の世の中にとって必要(流行り)のものと、そういうものと無関係の位置にいるもの(文学)って、そもそもが違うのでは?とも思うのです。

ビートルズに熱狂した人だって、クラシック音楽の素晴らしさに涙する人もいますよね。モーツァルトやベートーベンは古くさい?

いやいや、古くさいとか別の次元のものですよね。流行りのものは古くさくなっていくのに。児童文学は、クラシック音楽みたいなものかもしれません。児童文学っていうのは、流行りとは無関係のところにある、と宮崎駿さんも述べてました。

萌え絵や軽い文体の児童書はあってもいいし、子どもたちも求めているかも。でも、それとは無関係のところにある児童文学の名作にまで、そういう絵をあてはめたり、軽い文章に変えてしまったりするところに問題があるのではないのかな、と。

■ 児童文学は子どもっぽい文学、ではない!

色んな考え方があっていいとは思うのですが、かん子さんの主張で、いやいや、それは違いますでしょー、とさすがに思ったのがコチラ↓

どの本を読むか決めるのは精神である。

しかし、今の日本では、肉体的にも精神的にもYAである人々と、肉体的にはアダルト、なのに精神はいまだ大人ではない人々がたくさんできてしまったのだ。彼らは精神的にYAなのだから、YA文学を読むのである。(P.64)

(*YA(ヤングアダルト)とは、中高生向けのジャンルのこと。)

そして、いまだに『赤毛のアン』にむらがる大人に、疑問を呈するのです。

・・・え?

もしかして、かん子さんは、児童文学は子どものもののためだけ、と思ってるのでしょうか。一見子どもの味方のようでいて、子どもの文学は子どもっぽい、と子どもを下に見ているように感じてしまいました。

先日の小宮由さんの講演会でも、小宮さんはこんな石井桃子さんの言葉を紹介されていました。

子どもだけ読んで面白いものは、ちょっと気を付けたい。大人だけが読んで面白く、子どもが読んで面白くないものは、文学かもしれないけれど児童文学ではない。子どもが読んでも大人が読んでも面白いものが児童文学。

■ どんな目線で作られたものなのか

確かにね、正統派児童文学の表紙は固すぎて、どうかなあと思うこともあります。芸術的すぎて一般人には、その良さ分からなかったり。でも、面白いことに、読み終えると「この表紙、挿絵しかありえない!」と思うこともいっぱいなんです。児童文学あるある。

同じ「子どもが喜ぶから」でも、「子どもの魂を喜ばせようとしているのか」、表面的に下から目線で子どもの「ウケ」を狙ってるのか。それには大きな違いがあるように感じます。

萌え絵表紙のものは、エンターテイメントとして捉えればいいのかも。でも、それならば、日本には漫画という素晴らしいジャンルがあるのに。役割が違うかな、って個人的には思います。

作家、編集者(出版社)、売り手(本屋)、そして手渡す人の魂のこもった文学、それはウケたり、売れたりするものとは違うかもしれません。自分からは手に取らないかも。だからこそ、手渡す人が必要で、そういう人になれたらな、と改めて思いました。


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