手渡す人の違い!:絵本&児童文学
『絵本の記憶、子どもの気持ち』(2014年)山口雅子著 福音館書店
今日の一冊はコチラ。
短時間でさらっと読めるので、料理の合間に読むのもおすすめ。
これはねー、ロングセラーと呼ばれる地味な古典的絵本のどこがいいのか、大きな声では言えないけれど、正直ワカラナイ・・・という方に読んでもらいたい!
どこがいいのかワカラナイ・・・どちらかというと絵本が大好きな部類に入る私でさえ、正直大人になってから出会った絵本の中には、ロングセラーですら、そういうものあります。
ああ、いいなあ、と思うのは子どもの頃出会っていた絵本なんだな。これ、ある意味仕方のないこと。でも、大人になったいまの自分にとって、ツマラナイからといって、果たして子どもにとってはどうなのか。それをこの本は教えてくれます。
■ 甦る記憶、あふれる当時の思い
内容は著者が教えていた学生たちに出したレポートの課題「思い出の絵本」について、学生たち個人の記憶のレポートをまとめたもの。
これがねえええええ。全然泣くようなところではないのに、ジワっと涙腺抑えるのに必死でした。
最初は学生さんたちも「覚えてない!」と頭を抱えたそうなのです。ところが、ひと目表紙を目にしたとたん、失われていた記憶が、泉のように甦る。それがとても素晴らしくて、なんだか読んでいて、泣けてきてしまったのです。
シンプルなお話の絵本には、子ども自身の空想も広がり、乗っかる。そして、読んでくれたお母さんの温かさまで思い出す。
絵本を読んでもらう時間は、お母さんを独占できる時間!
ああ、子どもたちは、こんなにもこんなにもお母さんが大好きなんだ。胸がぎゅうっとしめつけられる思いでした。
■ 手渡す人の違い:絵本と児童文学
こちらの本を読んでいて、再認識したのは、やはり絵本の読み聞かせは、親子のものであってほしい、ということ。幼稚園や学校での、読み聞かせももちろん意味あるもの。でも、それと親子はやっぱり別もの。だって、内容というよりも、隣で寝ころんでいたり、お膝の上だったりする、ぬくもりの記憶なんだもの。安心に包まれた幸せな時間。
ただ、児童文学の場合は、別!
って個人的には考えています。誰か手渡す人がいないと出会えない素晴らしい児童文学って、いーーーっぱいあるんです。むしろ、素晴らしい児童文学ほど表紙が地味だったりするから、自分からじゃ見つけにくい側面があるのかな、とすら思う。
手渡す人が必要。
でもそれは親じゃない(ことが多い)
なぜ?
だって、子どもは親から自立したいんですもの。
親の手助けなしに、成長したいんだもの。絵本が母子一体の時期に出会うものなら、児童文学は分離の時期に出会うもの。共同から個人活動へ。
親から手渡されたら、実は興味があってもむしろ反発することもあるかもしれない。どんなにいい内容でも、親が「こうあってほしい」と願う価値観の押しつけになりがちだから。そして、子どもはそれを敏感に察知するから。
特に思春期は、ふとした第三者や友だちから手渡されたほうが、素直に受け取れる、そんな気がしています。だって、誰かに聞いてもらいたいけれど、でも親には自分に悩みがあることすら気づかれたくない、そんな子も多いと知りました。
(こんなこと書いておきながら、私自身は、親から勧められた本いっぱい読んできた人ですが 笑)
だから、私は‟大人に”児童文学の魅力を伝えたいなあ、って思うんです。親以外で、さりげなく手渡せる人を増やしたい。というわけで、今後も地道にコツコツ、大人に向けてブログを綴っていこうと思います。